続きです。自己概念の揺らぎと影にたいする質問に対して、
自己概念のゆらぎの話の中で、「ゆらぎって良く判らない。」の質問がありました。これに対しては講義の中で一度出たイソップ童話の「酸っぱい葡萄」の話を挙げてました。
「お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。」出典: ウィキペディア(Wikipedia)ですね。
講師は、この狐は想像ですが、自分はジャンプ力はある方だと周りからも認められ自慢だった。それが葡萄に届かなくて、その自慢の能力が足りない事実に遭遇した時にそれを受け留めることが出来きなかった。そこから目をそらすために「あの葡萄は酸っぱくてまずから取れなくてもよい」と正当化し、自身のプライドを守っていると捉えられます。この狐にとって自分の自慢の能力が足りない事実を知った時の不安な気持ちが自己概念の揺らぎと言えるのでは?との説明でした。判りやすい例だと思いました。
因みに私自身はゆらぎは自分の足元が揺れているイメージです。心の中にある長く気づきあげて堅牢と思っていた価値観の地面が揺れている感じです。
次に自己概念の影って?については影と言うと暗い感じになるの声が何人から挙がりました。これに対しては「自己概念の片りん」とすると判りやすいかもしれません。確かに!クライエントの言葉の切れ端にかすかに残る片りんのような価値観を現す表現ですね。
例えば今回の逐語の中でわたしが片りんを感じたのは、結婚相手が海外赴任する事になり、今の仕事を辞めなければならないと悩んでいる女性が、相手から「向こうに行ったら何も仕事しなくていいからと”普通”に言われたんです。」の普通って言葉の持つ違和感ですね。こちらが悩んでいる重みと相手は何とも思っていない温度差を表している気がします。